今という器の中から

過ごした時間を振り返る雑記ブログ

20180619

 YouTubeの動画を適当に眺めていたらオススメにTohjiが出てきていてハマった。ゆったり目で古い感じのフロウなんじゃないかなあと思ってたんだけどやけにハマって聞こえる。基本的に早口で載せてるのが好きだと感じていたので、こんなのもあるんだと感心した。

 

 久しぶりに将棋を指しながら、勝つときは大抵指し手が重いんだよなと思った。ネットの指し手に軽いも重たいもないし、説明なんかで使う重たい指し回しってのとも違う。たぶん集中力があると錯覚するか否かの違いなんだろう。集中力が途切れないように感じるときは指し手が重い。指し手がどこまでも続いているような気がして、一手が途切れない。一手が全体を内包する。話で聞くゾーンのようなもんなんだろうか。余計なことを考えていないような気もする。まあ自分で制御できてるわけでもないし、後出しの勘違いなのかもしれないが。勝ちたいなあ。指していても面白くない。勝って初めてトントンくらいだ。やらない方がマシだと思う。退屈よりはマシだろうか。

 

 久しぶりにカクヨムに四行詩のようなものを書いて、薄っぺらいなコイツと感じた。言葉が軽い。

 

 今のテーマは「重たくすること」なのかなあと呟いた。対象に物語を付加することだったり、人生を付加することだったり、意味を付加することだったり、切り捨てた思考を付加することだったり。文章で言えば推敲を重ねることなんだろう。人生で言えば主体性を持って選択し、責任を取ることなんだろう。何を捨てると決めてまで選んだのかということなのかもしれない。捨てたものを、失ったものを、自覚して恥じて受け入れろ。諦めを受け入れることを恐れ続けた。雑然として、薄っぺらく、軽い人生だ。