20180916
今日の良かったこと、ノルウェイの森(上)を読んだ。写真をいっぱい撮った。悩みに方向が付いた気がする。
昨日の分の日記を書きながら寝落ちしていた。なぜだかノルウェイの森を読まなければならない気がして昼から本屋に買いに行った。上を読み終わった。特に感想はない。明日は昼から車の修理があるので、下はそのときにでも読もうと思う。
珍しく一日で二食分くらい自炊をした。良いペースだ。この調子でやっていきたい。今度から失敗した料理にはインスタにメモでも書いた方が次が楽そうだ。
いろいろ悩んでいた気がする。当たり前にできることを丁寧にやっていくしかないらしい。とどのつまり、この生活を続けていくしかない。劇的な何かを求めてみたりもするが、やはり俺に限ってはそれは逃げなんだろう。責任と忍耐。それが必要なのかもしんない。
自分の長所について考えていた。YouTubeでメンタリストのDaiGoさんか誰かの動画を見て久しぶりにVIA-ISという単語を耳にした。性格診断みたいなもので、どんな結果だったか忘れていたので久しぶりに試した。結果はスピリチュアリティ、審美眼、公平性が上位3つだった。
スピリチュアリティについて考えていた。俺はVIA-ISのスピリチュアリティに関してはメタ認知能力のことなんだろうと解釈した。VIA-ISの説明には“あなたは全体像の中のどこに自分が位置づいているのか知っています。”と書かれている。この辺りを自分を大いなる存在(社会だとか世間だとか神だとか、自分より大きいと感じるなら何でもいい)から俯瞰して自分を切り分けることだと解釈した。
日記を書くことが自己を認識することだと考えれば、人並みにはメタ認知能力があると思いたいところだ。自分の認識では、世の中の多くの人は日記なんて書かないだろう。とは言え特別優れているわけではない。日記に書かれている程度、日記として認識している程度でしか、自分には認知能力がないのだ。それでも最短の道は、この日記を続けて、日記の質を良くしていくことなのだろう。
ノルウェイの森に出てくるワタナベは自分の殻にこもり、自分自身とそれに漂う何かにしか興味を持たないようだと誰かが言っていた。
自分の能力の中ではメタ認知能力が優れているとしても、他人と比べてメタ認知能力が優れているわけではないというのが心許ない。自分が持ち合わせている能力はメタ認知能力というには不完全で、使いどころが難しい。自分の感情と生活には向き合ってきたつもりだが、他人と向き合うことはしてこなかった。他人から逃げることは考えてきたかもしれないが、他人と手を取ることは考えてこなかった。割り切れるもんなら割り切っていくしかない。他人と関わって自分が変化していくことを恐れているんだろう。
分かっているつもりでも出来ないことがある。それは分かっているとは言えないんだろうな。例えば不足していると感じる項目があったなら、俺はそれを埋めるか、諦め続けるか、逃げるかしかない。俺はずっと逃げるような人生を送ってきた。埋めることができたなら、やはりそれが最善ではあったのだろう。
例えば認知というものが結果を知る能力だったなら、認知は結果を出す能力ではなかったのだろう。結果を知ることと結果を出すことはイコールではない。当たり前か。他人より少し、無意識を意識上に引きずり出すのが得意なだけ、いや、下手したら他人より上手くもないのかもしれない。けどもきっと、俺の中で一番得意なのはこれなんだろう。
メタ認知能力ってどうやったら伸びるんだろうな。伸びたところで、何が出来るんだろうな。メタ認知能力が高いと役に立つとは頻繁に聞くが、何の役に立つかはあまり聞かない。仕事だとか恋愛だとか人生だとか、とても抽象的だ。審美眼も同様で、人生は豊かになるだろうが、何の役に立つのかは自分には分からない。美しいものを見つけるのが得意ということには実感がない。見つけたところで、他人と共有できなければ価値が生まれない。他人の台詞だが「価値とは他者が見出すものである」。
自覚があるかぎり、改善できる可能性が残っている。あくまで可能性が残るだけで、俺は人事を尽くさなきゃならないんだろう。不便ではある。そんなことを感じていた。
#食事出汁を入れすぎた生地が少なくてまとまりなし焼き方が難しいそれなりに美味しかったが味が濃くて終盤には飽きが来た