今という器の中から

過ごした時間を振り返る雑記ブログ

20180524

 世界には認識が足りない。世界には優しさが足りない。そこでそれを解決する手段を求めるのが偉人というやつなのだろう。凄い人達がいたものだなあ。評価したい人間がいる。自分は評価できる立場にはない。悲しいものだ。権力や地位がある人間が羨ましい。そうなれるとも思えないから羨ましいのだろう。後は普通に妬ましい。チェコ好きさんが幸せの定義の一つとして「明日が来るのがそれほど嫌じゃない」というのを示していた。自分は明日を待っているので幸せみたいだ。良かった良かった。さっさと眠りに就いて明日に向かいたいものの、寝付けないまま日記を書き始めてしまった。俺には認識が足りないし優しさが足りない。認識って何だ、優しさって何だ、評価って何だ。明日が来るのが嫌ではないはずだが、際どい気分を行き来している。妄想が激しいんだろう。気を抜くと上手くいかなかったifの世界に生きてしまう。俺の人生はゴミのようなものだが、その中でも案外と心の救われるような出会いに恵まれ、その一部分にフォーカスを当てればそれなりに思える人生を生きている。とは言え現在が更新され続けるのが人生で、この先も良くなる保証は無い。悪くなる予感がするのは、人間として生まれてきてしまったことを呪うしかないのだろう。もしも風に意思があったなら、肉体の劣化に怯えることもなかったのかもしれない。本当にくだらないし馬鹿らしい。そう思うまではいいが、そこから前を向けないというのも情けないもので、何かしら人生に取り入れていきたいものである。前より遙かに嫌いな人間が増えた。嫌いだという認識は変わらない。嫌いだから好きになる努力をしよう。嫌いな人間を嫌いにならないようにする努力は空しい。しかしながら思想に人生は追いついていない気もする。自分のことを誤魔化すのは得意だった気がする。自分で自分の長所を捨てるようだが、最近は持ち運ぶには重たくなってしまった。俺の好きな自分を探している。自分の好きな他人に偶然出会うことは何度か経験しているが、自分の好きな自分にはあまり実感がない。俺が好きなのは勝った自分なのだろう。なのに俺には勝てるフィールドに心当たりがない。そりゃあ物足りなくもなる。欲しいのは優しさじゃないか。俺の優越だ。