今という器の中から

過ごした時間を振り返る雑記ブログ

20180515

 働きながら、やっぱ俺は無能だなあと思った。そんで俺を守ってくれる人が好きだなあと思った。また他人に依存が始まったんだろう。仕事を続けられる自信がない。定期的に会社のルーティンを回し始めているはずだが、全体像を把握できている気もしない。物理的な空間把握が必要で、苦手意識がある。図に起こすのとか苦手だ。最近は自分のことを大ざっぱな人間だと思い始めた。神経質で細かいことに煩わされるとも感じるが、認知構造と肌感覚の違いなんだろう。何も考えずに生きているらしい。内的報酬について知りたいと思ったが、自分のことを考えてみると外発的動機付けの方が多く思い浮かんだ気がする。特に他人の評価が大事だ。一方で他人から他人に興味がないと言われることも多いような気がする。自分が大事で、自分を大事に思うために他人が大事だ。俺を大事に思わない他人はどうでもいい。そんな流れなのだと思う。知りたいとかも内的報酬なんだろう。分かりたいと言うよりは知りたいの方が近い気がする。無限に身近な一問一答を探してるんだろうか。物の本質を知りたいだとか、そこまで厳密なものではないのだと思う。自分には真理までは必要ない、多分。好きなもの、将棋とか、カラオケとか。この辺は内的報酬もあるんだろうけど外発的動機付けを行おうとして潰れたんだろうなと思う。何段になりたいだとか、何点を取りたいだとか。本当に俺はしょうもない人間だこと。俺の存在が認められたいと思った。Twitterでは無形物の存在を強めるには情報処理の頻度を上げると良いと書かれていた。人間の精神も同様らしい。愛されたい愛されたい愛されたい。他人に愛されることも情報処理でしかないんだろう。世間話も情報処理でしかない。本質的に差がないと言えるのだろうか。好きでもない人間との上っ面の世間話も、好きな人間の非言語の笑顔も同じ情報処理だろうか。だとしたらなんてくだらない世界に俺の精神は生きてるんだろうな。どうせなら好きに歪めたフレームを使いたいもんだ。正確だから美しいとは限らない。真実が毎回面白いとも限らない。譲れないものについて考えていた。生きていたい。可愛らしい幻想を眺めていたい。安心と余裕が欲しい。譲れないんだろうか。どうだろう。一人の人間に満たされたいと思うのは傲慢だろうか。無限の人間に満たされたいと思うのは傲慢だろうか。幻想が欲しい。宗教が欲しい。神が欲しい。太陽が欲しい。自分以外の生命にそれを求めたところで、失うときが来る覚悟が必要なんだろう。笑っていてほしいのにそれを叶える力もない。もどかしくて退屈で窮屈で苛立つ。愚痴を吐くくらい、それで笑わせられるはずもないのに。愛する人には俺のことを見てほしい。