今という器の中から

過ごした時間を振り返る雑記ブログ

ぐるぐると考えている

 久しぶりにこの感覚を思い出した気がする。

 

 「退屈」。

 

 最近は少し精神的に参っていて、人生に嫌気が差すことが増えていた。それは労働環境だったり、人間関係だったり、未来のことだったり。それは自分にとってとても大きなことだと感じていたのだけど、最近は人間関係が少しずつ改善されつつあって、それと呼応するように他の問題も改善の兆しが見えてきだしている。

 

 前職のことも考えると自分は周囲の人間と馴染めるようになるまで早くても三ヶ月ほど掛かるのかもしれない。そして自分にとって人間関係というのはとても大きな要素になっているらしい。

 

 嫌気が差しているときは退屈をあまり感じなかった。どうすればいいのか、どうしてこうなったのか、明日もこれが続くのかと自問を繰り返していた。自分で想像する最悪とまではいかなかったが、自分の気が滅入るには充分な環境だった。自分は弱い。刺激の弱い毒を反応が出ない程度まで接種し続けられるかのような煩わしさだった。

 

 今日は意識的に休日と明日を切り分けられていた。明日のことは明日考えれば何とかなりそうと感じることができるくらいに、今の仕事が自分の生活の中に落ち着いてきているらしい。

 

 ひたすら寝て、頭が痛くなって寝つけず何をすればいいのか分からなくなった。退屈だと思った。

 

 詩と称してカクヨムという投稿サイトに上げてきたものも数が80を越えた。間こそ空いているが、初めて投稿してから一年間くらい経つらしい。けれど作品に見違えるほどの上達は見られなくて、誰かの心を動かすレベルにはまだまだ到達しそうにない。趣味でお金を稼ぎたいというやましさがあるので、もっと素晴らしいものが書けるようになりたいと思う。

 

 時々、これは楽しいんだろうかと悩む。結果が出なくても没頭して楽しめる趣味が欲しい。気が付いたら理想の結果について考えている。夢物語の妄想が好きなのかもしれない。カクヨムへの投稿が100に届いたら、一度立ち止まって考えてみたい。一つの作品の質が悪いというのもあるし、数が増えて一貫性がない。

 

 自分は何を実現したかったのだろう。歌いたかったのかもしれないし、フリースタイルラップがしたかったのかもしれないし、詩を書きたかったのかもしれないし、短歌を詠みたかったのかもしれない。自分の心を癒やしたかったのかもしれないし、他人の心を癒やしたかったのかもしれないし、他人に何かを伝えたかったのかもしれないし、押韻で遊びたかったのかもしれない。

 

 例えばZORNさんの「かんおけ」をYouTubeで聞いて、格好良く感じて真似したいなと思ったが、これも結果ありきで真似したいと感じているのだろう。他人の創作物を羨んでいるだけで自分という主体に目は向いていない。格好良いのは確かだが自分に出来るか向いているかとは無関係だ。

 

 好きなことを得意になれだったり、得意なことを好きになれとは聞くが、どちらか一方でなく両立している領域でないと自分では挑戦にもならないんだろうなあと思った。自分には何が出来て何がしたかったんだろう。したいことのために何が出来たんだろう。

 

 ライスワークをしなきゃならない。それすらままならない。自分のこらえ性がないからだろうか。自分を棚に上げて理想ばかり語っているからだろうか。ライスワークに理想を求めるのは間違っているのかもしれない。

 

 だとしたら何を許せるのか。何を守るべきなのか。またグルグルと回っている。