今という器の中から

過ごした時間を振り返る雑記ブログ

広い世界と狭い世界という感覚

 アルバイトの作業中に、これはきっと狭い世界の出来事だなと思った。例えば、英語だとか、プログラミングだとか、会計だとかは広い世界の出来事なんだろうなと思う。

 自分の考えたこと自体ってのはきっと狭い世界の出来事で、自分の書いた文章っていうのは広い世界の出来事なんだと思う。

 昔は今よりも、広い世界の出来事にとても興味があった。広い世界はどこまでも続いていくと思っていたし、これから新しく整備し続けていくべき道なんだろうと思っていた。

 けれども、あくまで自分の感覚的な問題で、広い世界にも果てがあるんだなと感じた。昔はどこまでも伸びていくと思っていたのだが、どうやら広い世界にも、狭い世界同様に限界があるらしい。「自分の頭の中だけでは」かもしれないが。

 例え広い世界に限界があったとしても、広い世界の価値がなくなるわけではない。けれど、これまでの自分は広い世界に憧れるあまり、狭い世界のことを過小評価してきていたのかもしれないと思いなおした。

 狭い世界も相応の価値があると思うのだけれど、あまりに身近すぎるのか、相応しい言葉を当てはめられていないような気がする。狭い世界は大きくもしづらく、増やしにくく、立場も不遇だと感じる。それは仕方のないことだとは思うのだが、少し残念な気もする。

 「拡大していく」価値の尺度が自分には一番分かりやすかったのだと思う。もちろん「広い世界すなわち拡大がすべて」というわけでもないのだろう。「広い世界」というよりも「自分が観測している期間に価値が広がっていった世界」とでも言うべきなんだろうか。

 自分が狭い世界と思っていた場所はきっと、市場として成熟した場所なんだろう。広がりきった後もその場に残り続けているのには、必要とされている理由があるということを、いまいち実感しきれずにいた。

 最近まで広い世界は無条件に善だと思っていて、拡大が最良の指標だと思っていた。けれど最近はその考えに自分が追い付けなくなった。いや、正確に言おうとすれば実際に追い付けたときなど片時もなかったのだが。

 よく「質と量」なんて言葉が使われるが、拡大にまつわる要素が量なら、自分は新たに質にまつわる何かについて考えるべきなんだろう。まだ実感としてその尺度を持てていないが、きっと誰かにとっては当たり前のことで、どこかに明文化もされているのだろうと思う。

 きっと自分のこの考えや認識は客観的でも論理的でもないのだろうが、自分がこれから意思決定をしていく上で、再考しなければならないところだろうなと思った。