今という器の中から

過ごした時間を振り返る雑記ブログ

20180818続

 花火大会も終わって、家に帰り一息をつく寝る前。日記なんて一日に一回も書けば充分なのだが、書かなきゃならないと感じたのでとにもかくにもはてなブログAndroidアプリを立ち上げる。近日、声優の方が亡くなられたらしく、Twitterで冥福を祈る呟きがちらほら見られた。自分のTLは声優クラスタとは少しズレている中でも届いてきたので、惜しまれているんだろうなあと感じた。呟きの中で、亡くなられても声は残るといった内容の呟きがあった。自分が死んだときはきっと声は残らないだろうなあと思った。最近は写真を撮ることはあったとしても動画を撮ることはない。この先はもっと動画を撮るような機会も無くなっていくだろう。声が残らないとしたら何が残る? ブログ? ツイート? 写真? きっと一時は残るだろう。けども、残したかったものっていうのは、どうだったんだろう。どうだったんだろうというとヒドく曖昧で、俺が残したかったものは、どうやって残せば良かったんだろう。俺は毎週のようにブログに人生の愚痴を書き残しているが、俺の人生も一瞬くらいは煌めく。トータルではマイナスの気もするし、過程で夢を見せて、結果に裏切られて全部駄目になって嫌気が差すときもしばしばある。だから? じゃないが、だとしても? じゃないな。分かっていたことだが? 俺の中にしかその煌めきは残っていない。俺の感じたことを、伝える方法も、俺が死んだあともこの世に残す方法も、俺には無いんだなと再確認した。それは贅沢か? 不在着信にすぐ気が付いたから電話を掛け直すことが出来て嬉しかったことも、必死に会場を探しても見つけられなくて寂しかったことも、見つけられなくて諦めていたところに、俺の居場所も知らないあなたが視界に飛び込んできた愛しさも、俺より大切な人がいるあなたが生きる世界への恨みも、あなたが生きる世界への祝福も、ほんの少しの情報しか俺には残すことができない。こんなんしか、この程度の表現しかできない。もっと大袈裟な感情や細やかな日常も俺の手の中にしか残らない。自分勝手だなあ俺は。そう思うまでの道順も文字には残らない。昔愛した誰かへの懺悔も届かない。残したかった。忘れたくなかった。俺を俺の知らない他人にしたくなかった。表現方法が欲しかった。俺が納得できるような。誰に迷惑を掛けずとも伝わるような、金に換わるような。人間が俺の感情を揺らす。そりゃ好きだし嫌いにもなる。それだけ良くも悪くも刺激がある。好きな人間なんてほんの僅かだ。そりゃ人と関わりたくもなくなる。俺は何がしたいんだ? 分かるか、分からねえな。可愛い子が好きか? そうだな。それよりも笑顔を向けてくれる子の方が、愛情を感じさせてくれる子の方が。だから? だけど? なのに? 愛してるの言葉は。エモいの言葉で終わりたくない。まだもっと先があるはずと。天才はアウトプットよりもインプットの質が違うらしい。俺のアウトプットが平凡以下なのは、インプットも平凡以下だからか? インプットしたものをアウトプットしたつもりでいる。成果物に力は宿らないが、インプットからアウトプットへの変換にそれほどロスがあるとは思っていない。俺のインプットじゃこの程度のアウトプットしか出来ないのも理解できなくもない。要は無い物ねだりだ。俺は、俺には、もっと伝えたいのに。誰かに、誰かに理解してもらいたい。もっと綺麗な形で、俺の生涯を残したかった。あなたが目の前にいてくれたことが、本当に嬉しかったことが、こんな書き方しか出来ないなんて。