半径マイナスの生活空間

現人神へと変わるまで、リターンズ。

20180414

 最近、平日は上手くいっている気がする。単純に、好きな女の人と下心ありきで会話するのが俺の人生の楽しさなんだろうなあと感じている。仕事に行っているのか人に会いに行っているのか分からないような状況だ。昔もそうだったし、思い返せば出社がツラくないときなんて全部そんな感じだった。社会人としては失格だろう。分かったところで俺には再現しようもないのだが。今の職場は隣を見れば好きな人が仕事をしている。最高じゃん。限られた間の幸せだ。自分に耐えられることであれば仕事内容なんてどうでもよくて、今の仕事の楽しさもその人がいるから生まれるものだ。その人の辞める時期が早まることも十分あり得る話だし、そうなれば今と同じように自分は仕事に取り組んでないんだろうなと思う。その人のためになっていると錯覚してようやく仕事に手が付く。いまさら望むようなやりがいも給料も手に入るとは思えない。自分にとっての報酬なんてのはその人と時間を過ごす理由が手に入ることなんだろう。俺の好きなんてのは軽いものでどこかプカプカと飛んで行ってしまう。昔の恋人は今頃どうしているのだろうか。幸せだといいな。こうやって他人に依存して生きていると自分の人生が破綻するんだろうなと思う。とはいえ自分の中で完結した望みが叶ったところで、しょうがないとも思う。俺はくだらない人生を生きている。平日に生きる、愛する誰かに縋った人生はそれなりに上手くいっている。休日に生きる自分のための人生は手つかずだ。世間的に必要な人格も手つかずだがそれは今のところどうでもいい。こうして文章を書くのは楽しいのだろうか。満たされている気はしない。将棋もカラオケも満たされている気はしない。他のものに比べれば好きなはずなのに、どうも俺の人生を満たしてはくれない。誰かから愛情や承認を借り入れないと、俺はもう自分の人生に満足できないのかもしれない。誰かの人生を踏み倒す生き方だ。そりゃ、ロクなもんじゃないだろう。自覚的だろうと無自覚だろうと大した違いはない。誰かに愛されたい。十分こじらせている。誰にでも愛されたい、ではないだろうな。愛する人に愛されたい。愛することは責任が伴う。簡単に人を愛してるなんていう人間だ。俺が持ってる愛情は責任と等価だろうか。そうじゃないよなあ。持っている愛情に対して責任がどうも足りないように感じる。それならやっぱり俺が持ってるのは愛情のふりをしたエゴか何かなんだろう。俺が持ってるエゴを、俺が否定するのもよく分からない話だ。エゴを見て見ぬふりをしたいのは、自分が善人だと思いたいからだろう。俺は善人だろうか、違うだろうな。俺は善人になりたかったのだろうか。なりたかったんだろうな。善人のふりをして、俺は満足できただろうか。他人を振り回しただけの気もする。休日を平日のために過ごすか、休日の好きな人を探すか。休日を平日のために過ごしたところで、隣にあなたはいなくて、満足には繋がらないだろうな。例えばあなたと何か約束していたなら、話す口実のために頑張れただろうか。休日の好きな人を探そうにも、探し方が分からない。俺は何をしたらよかったんだろう。休日はネットのあれこれを話せたり、一緒にカラオケに行けるような相手と出会いたいな。盛り上がるためのカラオケじゃなく、自分の好きな歌を歌いたい。好きなものを好きっていって、知らないことも拒否じゃなくて、聞き流してほしい。少し前に比べれば、期限付きにしろ、マシな人生を送っていると言える。何となく大事なものも分かった。しかしながらどうしようもねえなあ。自分で限界を設けるのも馬鹿らしいが、そのくらいの馬鹿だってことだよな。