半径マイナスの生活空間

現人神へと変わるまで、リターンズ。

20180108

今日のニュース


日記

 相も変わらず退屈や劣等感、無力感と闘っている。

 久しぶりにミームという言葉を見た。昔どこかで見かけて感動していたはずだが、忘れていた。自分の記憶力や感性ってそんなもんかあと悲しくなる。

 人間の生活が苦痛と忘我の繰り返しだとすると、極論を言えば生きてさえいれば幸せにたどり着く可能性はある。しかしながら現代社会では金銭があったほうが苦痛は緩和しやすいし、忘我へも取り組みやすいんだろうなあとそんなことを考えていた。それに正しい正しくないは主観的なものであって、自分がこの考えを採用するからといって他人に働きかけられるようなものでもない。まあ、他人からの圧力をねじ伏せるのも忘我のうちには含まれているのだろうが、あいにく悟りなど開けていない。開けていたならこんなことなど考えずに生活していることだろう。

 飽き症にも背景が存在する場合があるということで、自分のことを思い出していた。英語、プログラミング、イラスト、詩、短歌、作曲、将棋、会計、ブログ、カラオケ、写真、編み物などなど挑戦しては挫折したり、思い出して少しは続いたり。背景どうこうを考えるまでもなく、自分らしさと表現方法を求めて手を出してたんだっけかと思い直した。性格診断なんかにハマったり、スピリチュアルなんかにハマったり、自己啓発にハマったりも似たような理由なんだろう。まだ出会っていないだけで自分らしい表現方法がきっとどこかにあるはずだという幻想を追っかけて迷子になっている。

 性格診断などをして自分の役割について考える。大抵の結果を見ると物事の維持という役割に近い結果が出る。何かに属すのがスタートラインらしいがそこまでの道のりは遠い。苦手なことよりは得意なことをしたい。嫌いなことよりは好きなことをしたい。失業手当の手続きをしながら、マクロの不足分に押し込められるんだろうなあという感想を持った。自己選択の奴隷制。悲しくなる。どこかで逃れる手段もあったんだろうなあとは思うが、それはミクロの話であって、マクロでは誰かが就かざるを得ない状況になっている。せめてその人が望んで就いてるならいいなあと思うが、考えたくなくなる。

 表現はごく当たり前のものだという文章を眺めていた。文化という有機体の存続には受け取り、考え、真似て、表現することが必要らしい。

 創作のネタが考えつかないときの発想方法として、IFの理想の世界を考えるということを挙げている人がいた。今の自分には全員が幸せな世界など考えつかなかった。自分が幸せな世界を考えれば必ず恣意的に切り取られた境界があった。俺は自分が幸せな世界まで辿り着くことができるだろうか。これからの世界は全員が幸せな世界を提示できるだろうか。それの実現に近づいていると感じられる物事はあるのだろうか。

 個人としての幸せの求め方ってのが何となく見えた気がしていた。まあ自己を無くすなんてのは分かっていても実現できるようなことじゃないんだけど。じゃあこのまとまりがパートナー、家族、血縁、地域、国、人類と増えていくとまだまだお手上げな部分が多い。個人しか救われないなら争って奪うほかなく自分の弱さを考えると奪われるリスクの方が圧倒的に大きい。この世の中がバグってんじゃねえのかと毒づきたくもなる。

 文化のアイデンティティたるもの民族のアイデンティティたるものがなくなれば世界は平和になるだろうか。無理だろうな。平和に至る方法が時代の強者による異物の排斥と隷属くらいしか思いつかない。つかの間の平穏のために争うのか、そうなのかもしれない。むかし見たSFの作品で、一人一人が惑星を持つ時代が来るという話があった気がする。その話の中では一人が惑星を生成し、その惑星に住む人間が惑星を生成し……という無限ループを繰り返すという話だったはずだ。実は自分たちの住む世界もすでに前の人類につくられたものかもしれず、みたいな示唆もしていた気がする。せめて隷属を隷属と感じないくらいの制度の設計を目指してほしいものだ。制度に干渉できるような強い側の人間がそんなことをするメリットなんてほとんどないだろうけれども。

 技術が発展して、心のない機械が人間の下で支援してくれる社会が来ることを祈ろう。