半径マイナスの生活空間

現人神へと変わるまで、リターンズ。

移る場所

 11月が終わる。11月で誕生日を迎えてまた一つ歳を取った。二十歳を過ぎれば誕生日なんて嬉しいものでもないように思うがどうだろうか。自分に向けて誕生日プレゼントでも買う気でいたが、収入の充てもないしなあと思って諦めた。

 今まで他人に話した内容はブログに書くのは出来るだけ避けようと思っていたのだけれど、最近はどうでもよくなった。人間は関心があるものしか認知しないらしいし、自分にとっては労力をかけるほど大事じゃなくなったってことだろう。

 学びは複利だという文章を見かけた。随分と学びからは離れているだろうし、もう追いつけることもないだろうなあと考えていた。

 自分の言葉を隠すために詩を書けるようになりたいと言っていたことがあった。けれども最近は、表現は自分を押し出すことだろうというごくごく当たり前のようなことが頭に引っかかっていて、いつの間にか道を間違えていたんだろうなあと感じている。気の迷いだと考えてひたすら歩き続けるべきなのか、自分なりに納得が得られるまで立ち止まって足跡でも眺めているべきなのかを考えていた。

 11月は何をしていたか考えてみても、仕事を辞めて人生が後退したくらいだろうか。じゃあ何でそんなことをしたのかって、耐えられなかったんだろうな。自分で勝手に理想を掲げて、自分で勝手に幻滅して辞めていった。事実が見えてない。絶望する人間は希望を持つ人間だという文章を見て元気を貰ったが、現実が好転するわけじゃない。希望が叶うわけじゃない。ただその言葉で少し救われた部分はある。ゼロよりはマシだ。

 人生が終わるとき、やらなかった後悔に目が向くという。今でも買いたかったもの、やりたかったことは思い浮かんで、きっとそれは明日にでもやろうと思えばやれることばっかりだ。なのに自分の存在だったり未来だったりが枷になって笑ってしまう。何のために自分が生きているんだろう。俺がやれることを、俺がやりたいことをやればいいのに。誰かがリスクとは振れ幅だと言っていた気がする。未来すらリスクだ。

 資本主義ゲームなんて言葉を見るたびに、少し分かったような気になって、数日後には忘れている。資本主義ゲームから上がれたとして何をしたらいいんだろう。何をすればいいんだろう。資本主義ゲームから上がるどころか、参加することすらままならないのに。生きたいと思える生活がしたい。どうやったら出来るだろう。

 どこかにポロっと、別の生き方が見える眼鏡でも転がっていないだろうか。別の世界に行く鍵でもいい。なんて言ってみても別の場所が今よりマシな保証なんかないってことは身に染みていて、つまらない俺もまた付いてくるってことだ。