半径マイナスの生活空間

現人神へと変わるまで、リターンズ。

光を見せたい

 最近は生活が昼夜逆転しており、午前四時くらいまでTwitterを眺めている。この時間があれば何だって出来るんじゃないかって思いながら何だって出来ない日々を送っている。Twitterを見ていると刺激を受ける気がするので、程々には眺めたい。例えば人の多い商業施設とかでも代替は効くと思うのだけど、自分の神経が磨り減るからTwitterの方が楽だ。だからと言ってTwitterに長居はするべきじゃないんだろうけど。

 したいこととすべきことをするしかないよなあと知人と話していた。したいことは難しいしするべきことはもっと難しいけど。他に何をしてるんだろうなあ、大事にしていることだろうか。本当に大事にしてるかは分からないけど。

 創作に憧れているってのはここ五年間くらい呟いている気がする。多分ブログを始めたころから。ここ最近は手に付けられることから始めればいいじゃんと思って、言葉を使ったものに挑戦している。短歌だとか詩だとか。小さく毎日のように手を付けるようには努力しているのだけど手応えはない。ごくまれに書いてるときに閃きが降ってくるように感じることがあって、そのときは完成させなきゃって気にさせられる。直近でいえば

kakuyomu.jp
 
  だとか。サンクチュアリと退屈な日で結びつくなあと感じて何とかしたかったのだけど何とかする力がなかった。せっかく宝石を見つけたかのような気分になったのに、加工の方法が分からず、適切なフォーマットに起こして結果にすることもできない。自分では価値を信じているだけに、無力感に襲われる。

 アイデアは形にしなければ価値がないと言われる。やっぱり自分はワナビーくらいが関の山だなあと思う。ある程度尖っているように見える人は小さいころから好きの片鱗が見えていたように言われることが多いように感じる。自分で言えば友人もいなかったし記憶に残っているのはひたすらテレビの前で退屈だと感じていたことだけだ。昔からそれを解消しようとしてこなかったのは退屈さに耐性があったからなのか、そんな人生でも仕方ないと満足していたからなのだろうか。今になってポッと出で始めたのだから単に研鑽が足りていないだけというのもあるのだろうが、俺は残り何年生きるつもりでこれを続けていくのだろう。なぜ、自分に問わなければ続けられないようなことに心を囚われているのだろうか。

 自分は創作を神聖視していることが多いのだけど最近は考え方が変わるかもなあと少し思い始めていて、たとえ身近なものだろうと創作者の表現次第で見え方がパッと変わるのだなあと思ったり、何より伝わることの大事さについて考えないといけないんだろうなあと感じている。というよりも自分は伝えるための言葉を持ち合わせていない/育てられていないんだなあと感じる機会が増えたと考えるべきなんだろうか。創作ということを言い訳にして最低限の下地すら吹っ飛ばしてしまっているような、そんな空虚さを感じることが増えた。

 これは伝えたいことがあるから創作をするっていう在り方でなく、創作をしているってのに憧れるから起きる勘違いに足を踏み入れてしまったんだろうなあと思っているのだけど、事実それがモチベーションでもあるので仕方がない。表現や創作というより繰り返し作業だとか練習とかそういったニュアンスの方が近いのかもしれない。だとしたら自分がするべきなのはサーチ アンド ディベロップで無限に前進することなのかもしれない。とは言えそれは現状維持の最適解であって、本当はステージを移動させなきゃなんないんだろう。ガラクタ製造機をやっていても仕方がない。何か足りないのは分かってもじゃあ何を足せば解決するんだろうか。それとも引く? 場所を移す? 無限にそれに時間を費やすのは楽しいだろうか。とりあえず今はそのときでは無いんだろうな。まあ、何が大切なのかも分からないし、ぼちぼちいきますか。まずは資格の勉強でもせんと。

 恋人に高給取りを目指すくらいの心意気で頑張ってほしいなあと励ましの言葉を受けた。申し訳ないが現状の無職にそれは無理だと思うぞ。このド田舎で学歴なし資格なしフリーターに何が出来るというんだろう。だけど応えられないと思ってしまうことが悲しい。どうにか勝負できる土俵に入り込めないかなあ。現状の不甲斐なさじゃ無理だけど、諦めないでくれるなら人生で少しくらい夢を見させてあげたいなあ。諦めだけで手に入れる幸せなんて空しすぎる。