半径マイナスの生活空間

現人神へと変わるまで、リターンズ。

人間関係を続けるのに根性がいる

 人生でやりたいことを考えていたら終わってしまうような人生だ。会社からの帰り道に、横顔を眺めながら可愛いなあと考えるのだけど、人生でこの時間を増やすってのは限りなく難しいように感じていて、今だからこそというか、偶然に感謝というか、既に起こったこの時間を少しでも美しく、少しでも長く保てるように努力するのが妥協点なのかなと思う。前に進む勇気はないし、後ろに下がる気だってない。時間は流れるし、人は老いるらしい。全知全能の神が作ったとしたら欠陥としか思えない。それとも嫌がらせか。百歩、千歩、万歩譲ったところで死の存在理由は受け入れられたとしても、病や老いをつくったのは理不尽に思う。

 根源的欲求があると信じている。そうすれば簡単に自分が救われるだろうと思っているから。それが満たされれば自分という容器すべてが満たされるような、そんな何かがあると信じている。日常的に仲良しする相手がいればまた変わるのだろうか。とは言え彼女はいないし、甲斐性もない。定期的に支払うようなお金もないし、出逢えるような魅力もない。狭い田舎でナンパをすればすぐにでも素性が割れるだろうなあというのも億劫だ。

 毎日のように人間関係を続けているとすり減って投げ出したくなる。家族っていうコミットメントの存在は存外大きい。このままだと家族が死んだあとは基本的に孤独だろうなあと考えてみるが、どうしたって仕方のないことなのだろう。閾値を超えない人間関係は保つのに神経がいる。人間関係の閾値の超え方はいつしか忘れてしまった。

 自分の中でこれは喋るべきじゃないだろうなあと感じることがあって、それは大抵こうしてアカウントを住み分けながらネットに書いている。その方が人間関係が上手くいくだろうなあと思うし、自分と似たような人間っていうのは中々いないか、それか自分から見て似たような人間は自分と似ているとは思わないらしい。

 窮屈だなあと思う。現実でもインターネットでも。孤独な方が案外と自由なのかもしれない。他人に言わせれば当たり前に受け入れなければならないことなのだろうけれど。

 酒が飲みたい。酒を飲んで、自分の致命傷になるようなことを他人に話さないような人に、自分が話したいだけのことを延々と話していたい。一杯の缶ビールすらろくに飲めやしないけれども。家族に一割、友人に二割、職場で二割、ネットで五割。全部を話せる相手ってのは幻想なのだろう。けれど常に使い分けられるほど自分は器用じゃないし、幻想を欲しがってしまう。

 人間関係を続けるのには根性がいるのか、それとも根性がいるような変な選択の癖を身に付けてしまっているのか。考えても中々分からないことばかりだ。他人が動かせないならもう少し自分が図太くなるほかないんだろう。けれども、きっと他人から見れば自分も相応に図太いのだろうし、この辺りの認識のギャップが自分の中で埋められたらいいなあと思う。