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星明かりの更新

真っ直ぐ立つために、少しの呪いを添えて。現人神へと変わるまで、リターンズ。

記憶を持ち続けるということ

雑記

 物語の終わりは、いろいろなことを考えた気にさせる。

 『時をかける少女』のドラマを見ていた。アニメ映画を見たときの衝撃が、今も自分の中に残っているのかもしれない。自分の中の景色を変える眼球のようなそれを、今なお欲しがっている。

 ドラマの中で、主人公は様々な写真を残していた。実際に存在していた世界。これから上書きされ、二度と参照することは叶わない世界。やり直すことが出来ない痛みを抱えるくらいに、自分は生きているだろうか。きっとそうは言えないだろう。視界に映った気でいるリスクや責任だけの問題ではないのだと思う。自分の器が小さいのか、それかリスクの使い方が下手なんじゃないかと思う。リスクは鉄のように冷たい。けれど、それにはきっと、血を通わせることが出来るのだ。

 文章を書くときのエゴと他者評価が自分の頭に浮かんだ。この二つの間を自分は行ったり来たりしているのかもしれない。エゴに寄れば自分の思うように書きたくなり、他者評価に寄れば自分の文章を消したくなる。そして幾度も文章を消してきたが、エゴが消えることはなかった。自身はしぶとい。純粋な他者評価というものを、自分は持てているのだろうか。他者評価の岸辺にはうっすらと、自分のエゴが滲み出ているようにも思う。自分というエゴが自分を食い漁る。二つの間を行ったり来たりしているのではなく、同じところを回っていると捉えるべきなのかもしれないな。満たすべき器が見えていないんだ。

 ほぼ日手帳を見ていると、アーティストとは伝えることに邁進する人のことである、と言ったような内容が書いてあった。自分の記憶から掘り起こして書いているため、残念ながら認識の違いがあるかもしれないのだが。

 自分はアーティストにはなれないんだろうか。伝わらない。伝えられない。投げかけた言葉、投げかけられた言葉、表情、笑顔、過ごした時間、今日という一日。諦めが先に来る。自分であるという前提なしに、きっとこの感情を誰かに伝えることは出来ない。誰か自分以外の相手に、愛しさに似た何かを伝えられるところが想像できない。

 自分が生きている世界は、自分のつくった醜くて汚くて綺麗な世界だ。誰かの会話も、誰かの笑顔もきっと自分の中にしか存在しない、それくらい自分勝手な世界だ。橋の渡り方は分からない。橋があるのかさえ分からない。誰かが昔、「価値とは見出されるものである」と言った。自分の世界は自分が見出したものに囲まれ、構成されている。自分の世界だ。誰かと共有するのも難しいこの砂の城は、きっと自分と一緒に滅びるんだろう。この砂の城は、自分には価値がある。この砂粒の中にはとても綺麗な結晶が混じっている。手放すには惜しい。これを守らなきゃなんない。自分は少しでも長い間、この砂の城を守っていかなきゃならない。そんなことを多分、改めて思った。砂の城は誰にだって壊せる。でも、守れるのは自分だけだ。