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星明かりの更新

真っ直ぐ立つために、少しの呪いを添えて。現人神へと変わるまで、リターンズ。

自分の好きなものについて

 カラオケとブログと将棋は好きだ。今、禁止されたらしたくなるくらいには。

 カラオケで歌っている間は、思ったより声が出ているじゃんという気になる。実際に録音などをして客観的に聞いてみると、想像よりもヒドイものなのだが、歌っている間だけは、何というか気分が良いことが多い。無条件に気分が良いかと考えるとそうでもないのだが、普通に生活しているよりは気分が良いことが多い。自分自身が行っているにしては、そこそこの結果が出ているように錯覚できる、数少ないものなのだろう。「自分にしては上手くやれている」ってのは、きっと自分にとって引っかかりやすい感覚だ。歌っている間は、自分から見た自己評価を超えやすい気がする。自分が想定するよりは、結果が出るから好きだ。まあ、他者や客観を挟んだら消えてしまう、儚いものなのだろうが。自分の中だけでしか価値がないのなら、きっと自分を慰めるくらいにしか使い道がないのだろう。ヒトカラの方が楽しめるのもそれらが関係しているのかもしれない。

 ブログを書くのが好きだ。いや、書くのは特段好きでもないかもしれない。自分が書いたものを、内容を忘れた頃くらいに読み直すのが好きだ。思ったよりも考えてるじゃんと思うときもあるし、この時期にはこんなことをしてたんだなあと振り返れるのも面白い。書いている間は面白くないときもあるし、まだまだ言葉になってないような気がして、もっと書けるんじゃないかと思うことの方が多いのだが、喉元過ぎれば何とやらで、書いた後には特に感想もなく、適当な気持ちで読み直しては、まあ、そこそこじゃんと思う。実際に書いている間と内容を忘れて読み返している間は、きっと目線が違う。書いている間はどこか劣等感が付きまとっているような気がする。今の自分が書き進めているという条件さえ失われれば、お前(と言っても自分自身ではあるのだが)にしてはよく書けてんじゃんとなる。これも自らの自己評価を超えている瞬間ではあるのだろう。

 カラオケは歌っている間に自己検閲が弱まる。ブログは書き終えて他人ごとになったときに自己検閲が弱まる。それ自体の面白さと同様に、自己検閲を弱める作用ってのが自分にとっては大切なのかもしれない。頭だけでなく、よく分からんけどそう思うっていう感覚的な部分もそれなりに信用していきたい。理由が説明できるならそれに越したことはないのだが。

 将棋が好きな理由は難しい。どちらかと言えば嫌いになりきれないの方が近い気がする。例えば煙草だとか酒だとかギャンブルだとかと同じような類のものだと思っていて、好きだからやっているというよりは、辞めきれなくて続けていると言うべきか。勝てば嬉しい。負ければ腹が立つ。頭では、初めからやらない方が幸福度が高そうだと思うのだが、どこかで勝ち越したいと思ってやってしまうのかもしれない。将棋が好きな理由を考えると、物理的な再現がしやすいからという表現を思いついた。対比として考えられるのは意味的な再現だろうか。駒を動かすことは多くの人にもできる。けれども一から、何かしらの意図に沿って、流れを持って駒を動かすことは簡単ではないだろう。動きは全く同じでも、他の要素との関係によって意味が変わってくる。ともすれば、簡単に行える物理的な再現によって、その意味的な部分まで再現できたかのような気になれる。それを将棋は味わいやすいと考えているのかもしれない。これを説明しようとするにあたって、まだまだ思考の明確化が追い付いていないらしい。「林檎」と「赤い林檎」では恐らく物理的にも意味的にも再現の度合いが異なる。文字数も想起する印象も異なるのだろう。将棋は物理的には恐らく駒の位置が動いただけの違いしかない。しかしその裏には膨大な意味が蠢いていることがある。