今という器の中から

過ごした時間を振り返る雑記ブログ

羊と鋼の森を読んだ

 羊と鋼の森を読んだ。

 本の帯には”ピアノの調律に魅せられた一人の青年。彼が調律師として、人として成長する姿を温かく静謐な筆致で綴った、祝福に満ちた長編小説!”という風に、あらすじが紹介されている。

 ツイッターを眺めているときに、この本のタイトルを知った。ツイートでは、「世界と自分の和解の物語」だと紹介されていて、とても読みたいと思った。頭のどこか隅の方で、世界と仲直りしたいと思っていたのだろう。最近は、世界に許されたいと思うことが増えていた。世界は自分のことを嫌っているのだろうか。いや、きっと世界は、僕のことを嫌ってすらいない。それは人間の言葉で言えば無関心で、それは好きの対極にあたるものだ。

 本屋に立ち寄ったとき、僕はアンソロジーを買うつもりだった。様々な作家の作品が集められた短編集を、寝る前にスマホやパソコンを使わないようにするための代替物として。きっと短編集なら、短い時間でも分けて読むことが出来るだろうし、どんな作家がどんな文章を書くのかも知りたかった。人の個性を測るのに一番手っ取り早いのは、きっと、似たようなものに対する反応を比較することだ。

 けれど本屋に滅多に行くことのない自分には、目当ての、目的に沿った本を探すことは難しいことだった。本屋の中をぐるぐると回っても、それぞれの本の中身は頭に入ってこない。新刊の棚はある。本屋がおススメする本はある。棚には恐らくは出版社名であろう文字列が並んでいて、視線を移せば作家名らしきものが並んでいた。そこには幾つもの当たり前の情報が転がっていたのだろうが、自分には見知らぬ世界が広がっていた。何かがある。しかし、その中身が何なのかは見当がつかない。ここでの自分は異邦人らしい。ここでも、僕は、受け入れられていない。受け入れていないのは誰だ。僕か、世界か?

 棚を眺めていると、見たことのある文字列が目に入った。『羊と鋼の森』。知らない場所で知っているものに出会うと安心するものだ。たまたま同じ時間帯の電車に何回か乗り合わせただけで、名前も職業も知らない赤の他人に少し気を許してしまうような、ほんの小さな「知っている」という安堵があった。他人との摩擦の生じない”モノと僕との関係”において、それは手に取るに十分な理由だった。

 手に取った本を裏返して、裏表紙を眺める。意識は帯の部分に吸い寄せられて、購入を決意した。”ゆるされている。世界と調和している。それがどんなに素晴らしいことか”。その感覚を僕は欲しがっていた。

 主人公の外村と僕は違う人間だ。トムラとトガミ。初めの一文字しか重なっていない。それとも一文字も共通点があると感心するべきだろうか。外村は作中で調律と出逢い、それに専心した。鍵を"はじく"ハンマーの密度やピアノの重心、音の響きや音色、簡単に言葉に置き換えることのできないピアノの音にまつわるすべてを調整し、ピアノとピアニスト、そして聴衆をも橋渡しする。そんな気の遠くなりそうな作業に、外村はコツコツと取り組み続ける。作中では、幾人かがそれぞれの心の支えに出逢う部分が書かれている。心の支えに出逢って、それぞれがゆるされることを知っていく。僕はこれまでに、何かと出逢えたのだろうか。いや、もう既に出逢っているのかもしれない。僕が出会いに気が付いていないだけで。

 今の僕にはまだ、ゆるされているという感覚がわからない。