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星明かりの更新

真っ直ぐ立つために、少しの呪いを添えて。現人神へと変わるまで、リターンズ。

楽して時間を提供することなく価値を与えることもなくお金だけ欲しいという愚痴

日記

 この気持ちを下から軽くでも埋めておこうと思う。気分が高揚しているときは書かないだろうから。












 前提に死にたくないがある。そこに至る論理みたいなものはない。あったとして自分に死なれても困るのだ。理由はよく分からないし、必要そうなら戻ってから考えればいい。端的に言えばただ何となく怖い。感情が麻痺するくらいにならない限りは生きているだろう。他人に寄生している間は、そんな事も起こりそうにない。

 今の私にとって人生は退屈だ。けれど、積極的に行動して人生に働きかけようとは思っていない節がある。何度も例として挙げるのだけれど、それだけ『いかに傷つかないか、が私の基準なのかもしれない - 鷹と矢と蠍』が私の中に根付いているのだろう。行動にはリスクが伴う。リスクには傷つく可能性も包含されている。何もしないという行動の選択とも取れるが、これは短期的には一番、リスクが少ないし成長も少ないと思っている。しかし、長期的に見れば確実に詰む。

 長期的に詰む前にリスクを許容する必要があるのだろう。『小野和俊のブログ:レジリエンスについて』などの記事が記憶に新しい。どれだけの失敗を吸収できるか? といったところだろうか。僕自身、この範囲を狭く設定する傾向があるのだろう。

 日頃からどれだけの傷を軽減、回復できるかが大事なのだと思う。そう考えればブログにはそれなりの効果があるのかもしれない。こんな記事を見た。『ライフワークを見つけること。逃げ場所をつくること。 - ビニ傘』。自分にとってブログは逃げる場所になりつつあるのではないだろうか。探してみると『[ Facebookとブログには「サードプレイスとしての癒し」があるか(田中俊英) - BLOGOS(ブロゴス)]』のような記事もあった。サードブロガーからそろそろ一年経つ頃だろうか。秋の気配がやってくる。

 ライフワークとは何だろう。簡単に言えば好きなことだったり、得意なことだったりになるのだろう。それに触れる時間が増えれば、煩わしいものに振り回される時間が減る。とは言え、散々と思いつかない旨をこれまでも書いてきている。ふと考えると、思いつかないと言うよりもやらない理由が多すぎるーーと決めつけているーーだけなのかもしれないなと思った。

一度、外部を通して凶器の矛先を自分に向ける - 鷹と矢と蠍』では大して何も出来ていない中で、世の中には必要な事が多すぎると愚痴っている。「勝手にお前がしてるだけやんけ」のツッコミが効果的だろう。他人に言うと関係性が拗れるので注意が必要である。

 自分が必要だと感じてしまっていることとは何だろう。未来に渡って経済的な自立がし続けられるという展望、時間的や空間的に独立した作業場所。ネット+PC。

 まず展望は誰だって持てていないと考える方が自然だろう。将来のことなんて誰にも分からないし、平均寿命よりも健康寿命の方が短いのだろうことを考えれば、1人で生きていくというのもまた難しそうだ。作業場所と言えども単に恥ずかしさを捨てればどうとでもなるような気がする。最近では、一人暮らしは経済的に豊かだった頃の幻想といった言説を聞くことも増えたように感じ、これから自分だけの場所を持てる可能性の方が少ないのかもしれない。持てない可能性の方が大きいけど、ずっと我慢して死ぬの? みたいな話。永久に始まらないじゃないですかー、ヤダー。ネット+PC。贅沢言ってんじゃねえ阿呆!

 真面目に悩む気力も無くなってきた。他人の人生を奪ってまで我慢して生きるのが誠実なのか、それとも好き勝手に生きて迷惑を掛ける方が誠実なのかは悩ましい。他人から見たものが正しいとすると人生の難易度が歪むのは何となく言われてきているような印象を受けている。誠実さから求めた基準に従って妥協するにしても、それ難易度が高いのに変わりないような。我慢して迷惑掛けてお互いにlose-loseだ、ハッハー。

 金が欲しいでござる。

 金銭か労働に対して認知の歪みがあるんだろうなと感じることはある。貧ずれば鈍ずる。金銭は時に自己肯定感すらも高めてくれる。不当に持たないならば、人自身を歪めるし、その逆もまた然りだと勝手に思っている。

 自分に見合った分のアルバイト代は貰えているような気がしている。貰いすぎているかどうかは分からない。元々、幼少期の頃から金銭を用いるのが少ない子供だったと自分では思っている。旅行に行くことも無ければ外食もする方ではなかった。もっと言えば外に出ることも殆ど無かったような気がするし、金銭を使うような機会が殆ど無かったような気がする。それでもお金は余らない。不思議だ。単に金銭の価値を掴めておらず浪費しているだけなんだろう。

 金銭感覚が掴めておらず、かつ労働感も養われていないとすると、僕には適正といった部分が分からない。消費者としても労働者としても価値の大小を測ることが出来ない。要は何をしたところで、私は自分が何をしているのか分かっていないんだろうと思っている。勝手な想像だが、社会人の多くもそうなのではないだろうかと感じている。その賃金ははたして適正だろうか? 根拠を持って答えられる人が多数とは考えにくいし、それぐらい揺らぎがある中で働いているのではないかと思う。それが悪いこととは言い切りづらく、 『過剰な努力をしたくないから、努力が報われすぎる社会になってほしくない - 太陽がまぶしかったから』に通ずる道なのかもしれない。

 このままのアルバイト代では足りないらしい。給料を貰うには自分のスペックも足りないのかもしれないとなったときに、今更どうすればいいんだろうなという言葉が始めにやってくる。何をやったところで時給のアルバイト代は上がらない。労働時間も基本的には固定されている。職を変えるにはつくるか、探すかしないといけない。つくろうなんて考えたら、はじめは仕事だけにコミットする事になってそれでも成功失敗半々のシーソーゲームに興じなければいけないんだろうなという先入観がある。持ってしまった先入観を今更になってどうこうするには実際に体感するしかない。アイディア、人脈、能力、熱意なしに飛び込むと人生が詰むと紐付けられている中でそれを振り切るのは僕には無理らしい。無理と思うから無理なんだ、やれ。無理です。仕事を探すにしても元々の母数がない。母数が多い場所に移動するかどうか。結局はその中でも競争があって、じゃあそれにどうやったら残れるかと言ったら答えが出ない。

 何が必要か、何を必要とされているのかなんてことが体感的には分かっていない。どこかから引っ張ってくる他ないのだけれど、その元が見つからない。論理的思考力が欠如しているのか、それとも仮説思考の欠如というべきなのか。直接的に何をすればいいのかを把握できていないこと、元来の性格だと言い訳をして優柔不断、行動不足を肯定していること。自分自身で理由を付け始めているなら、やっぱり変わらないんじゃないかなと思う。
 
 自分主体で考える限り、無理だという結論に落ち着く。なんか、そう、まあ、無理だ。
 
 物心つくより前から小さく色々なことに挑戦する補助をして、経験の種類を増やすこと、経験値を貯めておくと良いんじゃないかなと思いました まる 

 勿論、無理強い良くない。カタコト。