読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

星明かりの更新

真っ直ぐ立つために、少しの呪いを添えて。現人神へと変わるまで、リターンズ。

夢の世界の話

 精神的に参りそうな予感。しかし、私は呪詛を撒いて立ち上がってしまうのだった。呪詛パートに入るので素直に戻る推奨。推奨するなら書かないのが合理的なんだろうけどね。







 






 人里を離れてインターネットを使いたい。そうすれば、もう少し他人に対しても寛容になれることだろう。

 今日は、何で努力してまでより良く生きようとしているのかが頭について回った。他人に関与されず、自分が望むように生きたいと思う。恐らくは他人もそうだろう。それを言語化すると死にたいになる。

 しかし、死にたくはない。多少の苦痛なら無よりも遥かに増しだろう。多少で留まる辺り僕は恵まれている。だからと言って不運を喜べはしないし、多少とは言え苦痛は苦痛だ。

 久しぶりに死んだ後のことを考える。誰かがその後どうやって生きる云々はどうでもよくて私自身がどうなるのかということについてだ。考えるだけ無駄なのが分かっていても捕まると逃げ切るのに苦労する。

 死を直視すれば行動が変わると巷で聞いた気がするけれど、よく平気だなと思う。僕は余計なこととして分類していたいし、叶うなら忘れていたい。時間の割には成果なんて出た試しがない気がする。

 ただでさえ虫の居所が悪い中で他人の存在が感情を逆撫でする。それでも他人に頼って、いや一方的に依存してしか生きる術を知らないし、知ろうとも思えない。

 器に対して望みすぎている。一度、頭の中での偏った常識を壊してしまえば随分と生きるのが楽になることだろう。ただし、苦痛を目の前にしながらわざわざ飛び込む気にもなれない。奪われるならまだしも、望んで差し出す気にはなれやしない。

 苦痛を受け入れる覚悟はない。私の場合は、自分は死にたくないが他人から見れば死ぬべきなんだろうになるのかもしれない。あくまで自分の場合でしかないが、死にたいは媚びの言葉なのかもしれない。

 他人は私のことを死ぬべきだと思っている。それは分かっていますよの死にたい。他人から傷つけられないように、自己を守るための死にたい。死にたいと言わなくなったら、自己を守る気力さえ喪ってしまったということはないのだろうか。

 私自身は失った人がいない。だからこそ、考えなしの文章を書いていられる。出来ることなら、この文章を望まない人が、目にすることが無ければいいなと思う。
 
 死にたくないのに、死にたいと呪詛を振り撒いてしまう。他人に振り回されずに生きたいし、好き勝手にしても他人が振り回されない生き方がしたい。けれど次の瞬間には、無理だと答えが返ってくる。
 
 何をしても自分が傷つかずに、他人も傷つかなかったら少しは楽だろうか。やはり夢の世界から出ないのが一番に思える。

広告を非表示にする