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星明かりの更新

真っ直ぐ立つために、少しの呪いを添えて。現人神へと変わるまで、リターンズ。

Facebookが面白かった

雑記

 Facebookが面白いと感じた。この一言に尽きる。

 

 凄く書きたい気がするので書く。先日、Facebookを始めた。友達は未だに0だ。イノベーター理論で言うならラガードになるのだろう。(とても失礼だが)全盛期は既に過ぎているような気もする。実際、Webサービスのことはよく分からないので、自分にとっての印象でしかないのだけれど。

 『そもそもFacebookに登録してどうするの? どうせ友人が増えるわけでもないでしょ』なんて考えていた。いや結果を見るに実際、そうなのだけれども。

 今更になってFacebookを始めた理由は、『内向きにも外向きにもなりきれない文章 - 鷹と矢と蠍』に書いているように“現実に知っている人の近況が知りたかった”になる。

 むしろ、その目的でFacebookを除外していたのが変な話でもある。変な話ではあるけれど、自分が思う自己の属性を考えれば順当でもある。Facebookと聞くと輝いている人がする印象が拭いきれない。「自分が始めてどうするの?」。そんなところ。

 Facebookでは0だけれど、未だに連絡を取る相手はいる。Twitterや、Skypeなど。line……? 知らない子ですね。

 その連絡を取る相手と言うのも、Facebook上では印象が違うように思う。自分が色眼鏡を掛けているだけとも取れるが、恐らく『ソーシャルメディア時代における「本当の私」はどこにある?〜平野啓一郎『私とは何か――「個人」から「分人」へ』 - 太陽がまぶしかったから』のような側面もあるのだろう。

 Facebook上の投稿を見ると、『今日の「嗚呼」 - 鷹と矢と蠍』のパフォーマンス色が強いのかなと思う。明確な答えが提供できていないのだけれど、「この投稿でどう見られるか、どのような印象を与えられるか」に重きが置かれているような印象を受ける。勿論、僕の色眼鏡が以下略。

 私の感覚で言えば、目に入るブログの主流はパフォーマンスだと思う。実際の割合で言えば逆なのだろうとは思う。ただ僕は今まで、知り合いの文章を見る機会はあまり無かった。

 コミュニケーションとして文章を用いることはある。勿論、その中でも演技、パフォーマンスが含まれることはあるのだろう。しかし、それは基本的に個人対個人。もしくは明確な複数に限られるものだと感じていた。それがFacebook上では実名で、且つ不特定多数に向けて文章が書かれている。それが俺にとっては凄く新鮮で、面白かった。

 文章を書くことは、何も特別なことではない。それが身を持って感じられたように思う。僕自身、日記や愚痴とは言え、200の文章を書いた。一つ一つは薄っぺらくとも、私にしては続いているなとも思った。

 けれど周りを見渡せば、誰もが当たり前のように文章を書いており、そして私よりも優れている。それが知り合いになると、途端に嫉妬が芽生える。自分は特別ではない。誰かと比べて優れているわけでもない。それは当たり前の筈なのだが、実際に認められないままでいる。

 何だか少し悔しい。Facebook、面白かった。

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