読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

星明かりの更新

真っ直ぐ立つために、少しの呪いを添えて。現人神へと変わるまで、リターンズ。

僕は愚者として失敗していても良い

日記

 久々に50PV/dを下回る。

 『ずっとやりたかったことを、やりなさい』のモーニングページやら、0秒思考の実践やらが目に入る。実際に紙とペンを使って行う気はしない。代わりにブログを使おうかなと思う。

 どちらも共通するのは無理矢理にでも書き続けることだろう。そして書く内容に制限を設けないこと、更に言えば紙とペンを使うこと。

 公開してしまう時点で書けないことが生まれるし、紙とペンだって使っていない。本来は朝の時間に書くのが望ましいはずが、深夜に書いてしまう始末。

 どちらかと言えば日記を書いていると思っていたのだけれど、もう少し文章の羅列に重きを置きたいように感じた。公開する以上、体裁を気にしたくもなるのだけれど、あまり気にしない方向で。

 公開した方が続くから公開している。逆に言えば続かないのなら、自分のためにならないのなら意味が失われていきそうだ。矛盾するようだけれど、どちらが誠実だろう。相手のためを思って消耗するか、自分勝手にやるか。

 消耗しても、その分が他の軸で補填できるなら互いに良い関係性が築けるのだろう。 私にとっては自分勝手にやる方が分かりやすい。自分勝手にやる分、せめて自分だけは楽しみたいものだし、楽しんでいると言いたいところである。それで叩かれた方が誠実なのではなかろうか。今はそう思った。

 記事でもなく日記でもなく、単なる記録くらいの位置を目指したい。記録を目指すからには何らかの効果に変えていきたいようにも思う。単体で活用というよりも素材と言ったところか。

 facebookを始めた。友達は0である。

 中高生くらいの女の子がレジに来た。135円の買い物に対して130円を払う。「残り5円ですね」と言うと慌てて50円玉を出す。トレイには合計180円。 金銭と僕を交互に見渡す彼女。僕はどうすれば良かったというのか。振り返ると私の滑舌が悪かっただけなのか。

 自分の進行方向がおかしくなったとしても、それが他人の進路を変える指標の一つになるかもしれない。そういった記事があった。それなら僕は愚者として失敗していればいい。勿論、初めから失敗を前提にしているのもおかしな話で、それでは失敗としても劣化しているのだろう。

 当人としては成果を求めているつもりではあるが、それが反映されるとは限らない。ある意味、道化にも等しく滑稽であるように思うが、道化として価値があるならそれは今の自分にとって十分なのかもしれない。

 意味のないことを書いて、同じことを書いて、それでも意味があるように振る舞えたなら。成功すれば意味があったと言えるだろうし、成功しなくてもそれは道化としての価値があるのかもしれない。

 どちらに転んでも価値があるならどちらでも構わないようにまで感じる。開き直りが一番近いのだろうけれど、はたしてどちらの目が出るか。