読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

星明かりの更新

真っ直ぐ立つために、少しの呪いを添えて。現人神へと変わるまで、リターンズ。

私にとっての「文章のコストパフォーマンス」を考えていたら脇道に逸れた

日記

 夕方、車を運転していたら「文章のコストパフォーマンス」という言葉が思い浮かんだ。

 人気ブログになるための方法論がトピックとして取り上げられたことをキッカケに、『「個人メディア」と「個人の日記」の違いは「コストパフォーマンス」という言葉が出てくるか否か - 太陽がまぶしかったから』を読んだときの名残が思い起こされたのだろう。

 自分の文章を見ていると、時間を掛けて量を増やしただけの文章が多い。記憶の外部委託と考えれば理に叶っているような気もする。

 そうは言っても、ネットに書いている以上は他の指標も求めたくなるのが私というもので。

 そのときに思ったことが生産性の高い日記とは何だろうということ。例えば限界まで時間を掛け、何も考えずに文字を書くだけの生産性は、「社畜」と揶揄されることと大した変わりがないなと思った。

 しかし振り返ってみると、思いついたことや調べたことから試行錯誤はしてみたつもりだが、気付けば今の文章の型に戻ってきている。 

 個人メディアに憧れることもあったのだけれど、我慢できずに諦めかけている。そもそも自分にとっての機能を考えるとき、必要なものが何かを考えると発信の比重はそれほど高くないのではないかと思う。後付け、「酸っぱい葡萄」なのだけれども。

 自分が今していることは恐らく、同一化と記憶の外部委託なんだろうと思う。

 記憶の外部委託の説明は恐らく必要ないだろう。同一化という言葉が正しいかどうかは分からないけれども、例を挙げるなら『僕が触れてきた創作物 - 鷹と矢と蠍』における“私は他人から価値観を借りてきているところがあって”になるのだろう。

 それは『村上春樹は「長編小説」の拡充のためにこそ翻訳や短編の仕事をしているのだけど、僕の「長編小説」はなんなのだろうか - 太陽がまぶしかったから』に登場する“概念のパーツ”を他人から借りる、もっと悪く言えば返すつもりもなく勝手に盗んでいくことに等しい。
 
 しかし他人から奪っただけでは「おしゃれなからす」、「とりの王さまえらび」に登場するカラスと同じ結末になるのだろう。凡庸なコラージュで取り繕ったところで僕はカラスのままで、別の鳥に変われたわけではない。

 私にとっての指標の一つに『手帳ブログのススメ』がある。自分でも、記録を用いた思考部品の生産をしてみたいと思うのだけれど、上手くいっている気がしない。

 上手くいっていない理由にはナルシズムからくる弱さが在るんだろう。例えば日記で完結するのも、半匿名が好きなのも、他人の羽を使うのも、自分勝手にしか書かないのも、現実と交わった自己の否定を恐れていることに他ならないと思っている。内向きに完結しているという指摘は全く間違っていない。
 
 外向きに書きたいと感じることがある。しかしWeb日記には限界がある。一定の上限を越えれば個人としての日記と呼ばれることもなくなる。本当に好き勝手に書いたならば、不意の一発で地獄まで送り込まれることすらある。

 そこには見られるか見られないかの殆ど二択しか存在しない。一度閾値を越えると戻りたくても戻れない、不可逆性に捕らわれた道だ。 それでもPVを求めると先には破滅しかないのだろう。

 私がブログに求める機能の一つに“土産”があって、自力の実績が欲しいと願う日々が続く。けれども、能力不足と目指す方向への摩擦が目立ってこれからも手に入ることは無いんだろう。他人の言葉を借りる分、相応の自己が欲しいと思う。相応の自己が無いからこそ、他人の言葉を借りているのだけどね。

 記憶の外部委託については、偉人やヒーローに憧れている部分がある。私自身は努力厨に近い思想を持っていて、ある程度の訓練で、ある程度までの能力の向上が見込めると思っている。俗に言う自己啓発病に近い状態だと思う。

 偉人やヒーローといった概念に近付くのは現時点で既に無理な気がしているけれど、そこそこ以下に位置する凡人が、ある地点からある地点までにどれだけ変化するのかは少し気になる。

 浪人生の成績で例えると、全体の7割は現状維持から下降になるらしい。だとすれば凡人の取り組みも恐らく精々が停滞、もしくは下降するんじゃないかと思った。

 散々に渡って仰々しい文章を書いているけれど結局は、「出来る限り日記を付けますね」というだけのお話。

 書ききった感想としては、ネットストーカーと変わらないなってそんな印象。