読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

星明かりの更新

真っ直ぐ立つために、少しの呪いを添えて。現人神へと変わるまで、リターンズ。

変換の大切さ、結果を急ぐかどうか

 怒りを怒りのまま純粋に放出したい。そんな事を考えたのだけれど、他人からすれば迷惑なこと この上ない。そう感じたとき、『この加工が苦手なのだろうか』と思った。

 記事を書くのは私にとって冗長すぎる。話題を絞って、構成を考えて、見出しを付けてと順を追っていたら、大抵は途中で飽きて仕上げられなくなる。飽きる前に書き上げられないと、途端に意味が無くなったように感じてしまう。

 あまりにも結果を急ぎすぎる。昔からそんな事を感じている節があるらしい。手間をかけるということを理解していないからか、日記、それも思ったことをそのまま書くくらいが限界だ。

評価をするならば対象の期間を1ヶ月に設定することが望ましいとあったような気がする。私には、それが必要なのかもしれないと少し思った。

私が不必要に人生を焦っているように感じた案件 - 鷹と矢と蠍

 それすらも超越した好きなことしか出来ないとなれば、それが見つかっていない現時点での時間は捨てるしかないだろうと思う。捨てるにしても、何かしらの意味が欲しいと思い、文章に変換して捨てている。その文章の限界が、今の日記になっているのだろう。

 例えば、髪を切る必要がありそうだ、仕事を変える必要がありそうだと考えたところで行動は変わっていない。思考は必ずしも行動に変わることはない。全て変換されれば大変なことだ。

 思考から行動までの感覚が広く取ってあるのか、それとも行動に変換させるまでの消費量が想像より大きいのか。そもそも冗長という表現が適切かどうかも怪しい。その辺りの抽象的で包括された印象が「現実は面倒くさい」と訴えてくる。
 
 熱中させられることはあっても、熱中することは殆ど無いと言っていいだろう。熱中したことの例が思い出せないくらいには。

 変換と実行が面倒くさい。面倒くさいけれど、何となくそれは必要だと感じる。その手間が少なく感じるからネットが好きなのだろう。現実だと制約が多すぎる。ネットも責任権限が現実へと近付いているとはいえ、まだ現実よりは増しだろう。

 しかしながら、現実でも生きる必要がある。他人と干渉して、いや、社会的な生活には必修なんだろうと思った。