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星明かりの更新

真っ直ぐ立つために、少しの呪いを添えて。現人神へと変わるまで、リターンズ。

ブログ書きとして責任を求められたくない私の、身勝手さについて

雑記

 blogの読み手と書き手について感じたこと。

 

 読者に一定以上の誠実さを求めるのは酷だという話を良く聞く気がする。どうしたって誤読は避けられないものだと。それに関しては同意である。

 基本的に読者は選べない。読者と書き手の知識の差もあれば、書き手や読み手の認識の違いもある。人間だから分かり合えるというのは私にとって幻想にすぎない。まあ、そのことさえ良く忘れてしまうのだけれど。
 
 
 それでは書き手には、どの程度の誠実さが求められるのだろう。完璧のみだろうか。誤字、誤訳、誤読、誤認識など、それらの全てが書き手の責任として求められるのだろうか。

 誠実さについてblogで発信する場合、大抵は書き手としての立場になる。主体的、能動的な自律になるのだから、厳格になる傾向があるのかもしれない。

 誠実さの証明として、書き手に責任の所在があるのは構わない。仮に責任の所在が書き手にあるとすると、取るべき責任の範囲はどうなるのか。他者による批判や中傷は、どの程度受け止めるのが望ましいのだろう。望ましい/望ましくないで言えば、その責任の全てだろう。もしくは個別案件毎に設定するか。

 

 白か黒かが嫌いだ。「責任を取って当然、取れないなら書くな」という言説が好きになれない。

 これを書き手が言うなら自戒に聞こえるが、これが常識や共通認識にまで変わると私が困る。

 これが嫌いな理由は、端から見るとその条件でも書ける人間がいて、自分は書けない人間だからだろう。私は、書くだけ書いて責任を取る気持ちが薄い。

 

 しかしながら勿論のこと、悪質な嘘や中傷、無理難題を他人に書かれると気分が良くない。他人だって恐らくはそうだろう。私としては曖昧であってほしいと思う反面、明確にされるべき必要性も少なからずあるのだろう。
 

 とりあえず今のところは、曖昧さに隠れながら自分の準則に従う。その上で個別の案件に触れながら感覚を養い改善する。その辺りが妥当だと思ったので書いた。

 
 読み手にも書き手にも、どちらかに責任の全てがあるとは思わない。私は思い通りに書けやしないし、読まれることもない。思い通りの感想が返ってくる方が稀だ。私が読み手になっても変わらないだろう。そのことに対して、一生懸命、誠心誠意、常に全力で書くのは難しい。ただし書き手であろうと思うなら、「お前が言うな」と言うところだろうか。

 敬意を払っていないわけではないのだけれど、何とも難しいものだ。