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星明かりの更新

真っ直ぐ立つために、少しの呪いを添えて。現人神へと変わるまで、リターンズ。

『ドグラ・マグラ』を再読したので感想を書く

 ※一応は読んだ内容と感想なので、未読の方は注意


 7月3日から再読を始めて、本日再読終了。再読を一度したくらいでは読めない。読むという行為を一定の理解に置き換えた場合、何も理解できていない。読めていないのだから発狂もしないだろう。それでも読もうと思って回数を重ねるうちに、頭がおかしくなるのは想像に難くない。潮時を感じる。

 根拠や矛盾は置いておいて、感想を書く。例え認識が間違っていようと、私はこの作品に惑わしに抗う自信がない。もはや間違えたものも間違えたままでいいと思っている。敗北宣言。

或る人物が精神病棟らしき場所で目を覚ます。その「私」は自分に関する記憶が抜け落ちており、様々な人間関係が交錯しつつ、徐々に情報が紐解かれていく。

http://a-origami-hat.hatenadiary.jp/entry/2014/06/18/064753

 前の記事で上記のあらすじを書いた。今となっては、これは間違いかもしれないと考えている。私に関する記憶が抜け落ちていると書いたのだけれど、記憶など初めから存在しなかったのではないと感じた。

 呉一郎であって、呉一郎にあらず。他の誰かが追体験した呉一郎の記憶だったのではないだろうか。とりわけ同世代に生きる人間ではなく、次の世代の胎児だったのではないかと感じた。

 行動に意識が感じられず、流れに沿って進む。遺伝する世代の外見の相似。漠然とそんな印象を受けただけであって、補強するような根拠もない。始めと終わりの音が同一だと言うのも、夢の中での時間なら、そう大きな問題はないだろう。
 
 物語を蔑ろにするような感想だ。記憶の追体験も、世代から見て重要な、部品としての事実を拾うことが大切であって、呉一郎として始終の人生を見る必要がないと判断された結果なのではないだろうか。

 困ったときの夢オチで、今のところ『ドグラ・マグラ』は、胎児が見た呉一郎の夢だと思考停止した。正解には辿り着けなかった模様。

 『ドグラ・マグラ』を紐解ける猛者に期待する。

他人が他人の心を見ることは出来ず、それを正確に測ることは出来ない。且つ、それは皆一様に同じではなく、それぞれに違いが少なからず存在する。

 その中で懸念されているようだったのが、必ず存在するであろう欠落に対して焦点を当て、多数もしくは力を用いて一つの対象を陥れることだろう。

http://a-origami-hat.hatenadiary.jp/entry/2014/06/18/064753

ドグラ・マグラ』を読み進めていると、「常識とは何か、当たり前とは何か」と考えさせられる。一度、疑う習慣をつけてしまうと、それまでその習慣が無かった人からすれば、人生が変わるほどの影響があるのかもしれない。主に悪い方向で。

http://a-origami-hat.hatenadiary.jp/entry/2014/06/18/233627

損得勘定で生きることが間違いだと書いた記事を見た。『ドグラ・マグラ』でも要約すれば合理的に生きることは正しくないと書いていただろう。どちらもそこへ到るまでの道筋が、漫然とした間違いを抜けてただ一つの真実を信じろ、信じれば救われるといったものに見える。

 99が間違えているか、それとも1が間違えているかならば1が間違えている。1の主張が、信じられない人間に理解できるような説明は難しいが信じれば分かるといったものなら尚更だろう。何の宗教だ。

 しかしながら、ふと「正しいのではないか」と思うときもある。何しろ確かめようがない。それが正しいなら信じるしかない。今までが間違えていたのかの確認には、一度盲信してでも比較するほかない。

 それは言うなれば極端であって、自然と混ざり合うことも、辿り着くこともない。自己の普通に従っていれば辿り着かないのなら、自らの意志で選択するほかない。正解だとしても多くの人間には辿り着くことが出来ない。選択する人間はそうそういないだろう。

 それこそ選択する人間はキチガイだ。賢者の真似をしていれば他人から見れば賢者だといった言葉があった。他人から見てキチガイなら、その人はキチガイだとされる。誰か1人による評価なぞ、その程度のものだろう。

 『ドグラ・マグラ』を読んだものは発狂するとかどうとか書いてあった。自分では発狂しているどうこうは考えなかったし、思わなかった。しかしながら、それを読んで『人類は皆キチガイ』だったり、時間や夢の概念を平然と読み進める。その知識を頭に入れておくことは、私の想像する一般的な人とは離れている。

 それを読む前ならきっとそんなことを考えていると知った時点で「気でも狂ったのか?」 と考えるだろうし、相手は「そんなわけないだろう」とでも答えるだろうから溝は深まるばかりだ。それは他人から見た事実が真ならば、読んだ人間は発狂していると見なされることだろう。

http://a-origami-hat.hatenadiary.jp/entry/2014/07/05/124648

 途中、脳髄が電話局だと例えられる箇所があった。それを見たとき、頭にGoogleが思い浮かんだ。

 Google自体が全てのコンテンツを考えているわけではない。Googleはあくまでブログやその他サービスのコンテンツを纏めているだけだろう。決して、その中身の1から10までを考えていたわけではない。

 情報はインターネットに共有されている。脳が交換局ならば、体がインターネットになるのだろうか。だとすれば、場所によって情報が対応していると言うよりも、身体自身がすべての情報を共有しているのかもしれない。

 しかしながら、作中では身体と情報が対応しているような書き方をされていた。自分では、考えれば考えるほど訳が分からない。とりあえず『ドグラ・マグラ』からは離れよう。

 2000字。無駄な文章を削ると恐らく割るだろう。構成や他人の視座にも気をつけたいけれど、あまり時間をかけると書くのを辞めてしまいそうだ。今は出来ないことが分かったので次回は気をつけよう。