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星明かりの更新

真っ直ぐ立つために、少しの呪いを添えて。現人神へと変わるまで、リターンズ。

自分に問いかける日記

 夜に少し寝る。朝まで過ごし、夕方近くまで眠りにつく。少し寝て、少し起き、また眠る。

 火曜日。外に出て走る。誰もいない道を1人で進む。世界が広がったようで心地良い。今だけは独り占めしているような気分だ。

 5.7km。50分ほど走り続けた。5kmには少し壁を感じていたが、乗り越えられたようだ。直接的に嬉しいとは思わないが、1つ実績は解除できたことだろう。

 joggingを習慣づけようと思ったときは、2kmも走っていなかった。進歩と言えば進歩だろう。回数で言えば6回目。学生時代、毎日のように走っている友人がいた。取り組みの差の大きさが、何となく分かり始めた気がする。

 綺麗な文章を書きたいと思う。しかし、出来上がるのは、冗長で暗い文章のようだ。誇れはしないかもしれないが、特段、嘆くようなものでもない。

 conceptだったりthemeだったりと、中身の無いような言葉が好きだ。いや、それすらも埋める事象が好きなのだろう。

 創作が気になった。元々、それほど興味があった訳でもないだろう。子供の頃から絵を描いていた、なんてこともなく、何か文章を書いていたわけでもない。楽器を学んだ訳でもなければ、曲を作るわけでもない。いや、それすらも憶えていないだけだろうか。

 好んで創作をするような人間ではなかった、と思う。何度か結果に憧れ、その過程に喜びを見いだせずに離れていった。

 創作との距離を縮めたいと思ったのは、ニコニコ動画に入り浸ってからだろう。やけに身近に感じた気がした。自分にも出来るのではないかと考えたが、恐らくその考えも間違えているのだろう。

 成果を求めるから、出来る出来ないで考えるのだろう。余程のことがなければ、出来ない筈がない。絵が下手でも、文章が支離滅裂だろうと、歌が音痴だろうと、それを発信することが私には出来た筈だ。今の時代は、その下地がある。

 向こう側に渡る障害は減った。向こう側に渡れたはずだったが、向こう側は何処までも続くように見える。私は今、どの辺りにいるのだろう。

 何で今更になって、創作に興味を持ったのか。それは私の、創作に対する印象に依るものだろう。

 私は創作に対して「生み出す」という印象を持っている。それは私の欠乏を埋めたり、幸福を増幅するような魔法足り得るのではないかと期待しているのだ。

 しかしながら、創作には近寄れずにいる。創作に憧れる自身を発信するのみだ。

 創作は決して魔法ではない。いや他人の創作は魔法でも、自身から見れば決してそうだとは限らない。それは自身の動機を奪う、いや諦めるに当たって充分な理由だろう。

 向こう側に行くには、創作する必要がある。こと文章においては、Weblogのような環境がある今、何かが出来るはずだと考える。何かを発信するでも、物語を紡ぐでも、何かしら関わる方法があるはずだ。
 
 しかし、考えてみても自分と創作とが結び付かない。憧れている気持ちさえも、現状からでっち上げられた幻に過ぎないということか。

 力量を超えた成果を求める。意図せずとも発信していることがある。愚痴でも、嘆きでも、日記でも。それを認められないのは、頭の片隅で望ましいか望ましくないかの査定が行われているからだろう。

 他人のそれよりもずっと小規模な、自分による検閲が越えられない。他人によって傷つけられないための、自己保身に過ぎないはずなのにも関わらず。
 
 他人の魔法を見る中で、それを創作だと胸を張れる訳もない。胸を張れないと困る。私は創作者としての身分を求めているからだ。言わずもがな、創作を楽しめない、創作をしない人間は長続きしないことだろう。しない側の私は、始まりもしていない。




 結局、他人が羨むような「あがり」が無いかを探し続けている。きっと、そんな道は全て塞がっている。無いものを追っても仕方が無いはずなのに。

 日記を書く理由は何だろうか。残すため。何を。何故。自分が考えた内容を、その日あった出来事を、自らに問いかけた質問を。それらを残すことに意味はあるのか。振り返って、どうなる。

 これ自体が対話に見立てられるのだろう。気になることを聞いて、それに答えればいい。それが積み重なるようなら、幾つかの問題は解決するだろうし、必要な足場も固まるだろう。何を聞けばいいかは、また今度、聞くことにする。