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現渫フラグメント

少しの呪いを添えて

支え方は思いつかなかった

バイト先の人が「友達もいなくて、仕事も出来なくて、アタシは本当に生きていてもいいのかなって思うんです」と話していた。ここまで書いてしまうと自分としては具体的に書きすぎてしまっている感覚があって、せめて投稿する日付なんかをズラして、職場では休憩中だとしてもスマホからだとしても自分のブログを確認しない方がいいだろうなあと思った。それを差し引いてもこの台詞は切り取っておいた方が良さそうだ。たぶん昔も似たようなことを書いていたはずなのだけど、自分の言葉を発せた気がしないし、次がある前に煮詰めておくべきだろう。

けれどもインターネットを眺めていると、最適解は「あまり深刻に受け止めずに聞いておく」ぐらいである気もする。聞き流すのも道徳的には良くないのだろうなあと思うのだが、深刻に聞き、加えてアドバイスまでしてしまうようだと、お互いに実害が出てしまうような気がする。つまり、ブログに書こうとするなど以ての外なのだ。ブログを書きながら矛盾を起こしていく。

ざっとTwitterを見ていると丁度役立てられそうな記事が流れていた。
メンヘラ化したブラック企業時代の私を支えてくれた恋人の3つの対応 – メンヘラ.jp


俺個人に出来ることなんてないんだよなあ。恋人になりたいわけでもなく上司であるわけでもない。ただ俺の方が半年くらい早く作業に入るようになっただけ。自分が取り組むべきことと言えば目の前の仕事を誰でも出来るように片付けておくくらいだろう。そうすれば自分の先輩にも顔が立つし、後ろの人間にも歩きやすい道が拓ける。前例も使いようだ。仕事が出来ないなんて悩む必要だってきっと無くなる。俺が直接的に関わる以外にも、支える役割は果たせるはずだ。そう思うこれは逃げなんだろうか。不必要なミスマッチを全部解消していく。俺より後に入った人間も大抵は俺が愛するべき人間だ。余計なお節介にならないように気を付けて、道をつくっていきたい。

「文章とか向いてそうだよね」と言われて

「文章を扱う仕事とか向いてそうだよね」って言われて、褒められているようで嬉しかった。言葉の裏には何かあったのかなあー。考えない方が幸せそうだ。やたら滅多らに書き連ねても何も思わないように見えるのも、案外と文章に向き合うことに抵抗がないからと言えるのだろうか。ただし、難しい文章が読めるわけでもないし、要点が整理できるわけでもない。斬新な視点を持っているわけでもなければ、繊細な表現が出来るわけでもない。もし文章に抵抗がないことが長所だったなら、俺は少しでも多くの本を読んで、何か一つでも人並み以上の技法を身に付けられるように努力していくべきだったんだろうな。

文章に関わる職業ってどんなものがあるんだろうか。プロブロガー、アフィリエイター、小説家、校正、編集者、詩人、新聞記者、ジャーナリスト、コピーライター、作家。どれだってなれる気がしないや。文章に関わるってことは必ずしも自らが書くってことでもないのだろう。

就活をしているとき、誰かに褒められたエピソードを思い出してみようなんて言われても、一つだって思い当たることがなかった。最近は地道なことが向いてそうだとか、文章に関わることが良さそうだとか、時間に対して鈍感だとかと言われる。

まだまだ足りないし俺が他人の目にはどう見えているのかの情報がもっと欲しいと思うのだけど、自分から直接的に聞いても話が歪む気がしてしまう。こういうのをもっと早く知ってたら何か変わったかなあ。

もっと早く色々な仕事に触れていくべきだったんじゃないかと思う。同じかそれ以上に、仕事を通しての人との関わり方を体感しておくべきだったんだと思う。嘆いてばかりいても仕方ないから、そういう自分が大事だと思った要素を、一部でも自分の生活に取り入れてくっきゃないのだろう。

そうして知ったことを、俺の愛する人だとか、俺のことを愛してくれる人たちに少しでも分けられたらいいなあと思う。そう思うならもうちょっと他人にも分かりやすいように書いてほしいものだが、俺よ。

劣等感の使い道がよく分からない

気が付けば九月も終わりが近づいているらしい。ああ、今年も終わるなあ。俺の人生はどうなっているんだろうなあ。期待というべきか興味というべきか破滅願望というべきか。破滅願望なんて綺麗なものではないだろうなあ、単なる思考の足りない馬鹿だ。いや思考が足りないと言うよりももっと別の、まあ現実逃避か何かか。どこに逃げたって自分からは離れられないのに。

九月は文章をあんまり書いていないようで、自分でも『こいつ何考えてたんだろうなあ』と思う。最近は友人とAVAという戦争スポーツゲームをやっていた。友人と飯を食いに行ったり、『君の名は。』というアニメ映画を見に行ったり。君の名もいつかは過去になる。自分が生きている間に過去になるならやっぱり俺は同じ世界を生き続けていると感じるのだろう。

後はラップシンガーのdaoko さんの曲を聞いていたり、アメリカのラッパーの Machine Gun Kelly の曲を聞いていることが多かった。今まで聞いたことは殆どなくて、九月だけやけに聞いている格好になるんじゃないだろうか。ラップはかっけえなあと思うのだけど、自分自身の中で一番か考えるとどこか自分は嘘を吐いている気がする。音楽にも言葉にも引っかかりはあるように思っても、実際にはそこに初期衝動なんて何もないみたいだ。俺は生みの人間じゃないらしい。だからってカウンターも見つからない。消費だけで満足できていない。消費の量が足りないのか、それとも質だろうか。じゃあどこに向かえやいいんだろうな。

何をすれば結果が出る? 俺が望んでるものは何だ。はたしてそれは生涯のうちで手に入る物なんだろうか。いつになったら答えが出るやら。自分の期待の大きさってやつはどこかで向き合わなきゃならないんだろうな。生かすにしろ殺すにしろ特性は見極めたいもんだ。どうやってこいつを扱えばいいのか。真っ先に悪いところに目が向くが、良いところはあるのか。期待ばかり膨らんで、中身が伴わないなんてのは滑稽そのものだ。

今までブログを丸ごと消してるときってのは自分が抱えられる劣等感の許容量を超えたときなんだろうなあ