半径マイナスの生活空間

現人神へと変わるまで、リターンズ。

20180920

 今日の良かったこと、早く帰れた。弁当を買った。昼から雨が上がった。

 

 とても単純なことで、生きるのが苦しいんだと感じた。良い悪いでもなく、悩むようなことでもなく、ただそれだけなのだろう。今は生きるのが苦しい。それ以上悩んで自分を傷付けることもない。

 

 日を追うごとに、一日にあった良かったことを探すのも大変になっている。ある意味では自分の中で幸福の度合いが固定されてきているのかもしれないし、どの物事が自分を幸福にするか感覚的にでも分かっているとも言えるのかもしれない。

 

 振り向いて貰えない相手に好意を持ち続けるのは精神衛生に良くないし、かと言って好意を捨てるのも一朝一夕でできることではなく、相手の優しさに対する自分側の反応は好意の増幅と虚無感が並立する。とは言え現在の自分の幸福度はほぼほぼこの状況に依存しており、代替する人間も、代替する行為も見つからない。

 

 新しく、自分にとって心地の良い音楽を聴くことは楽しい。けどこれはお金にならない。つくるのは他人なので自分では干渉ができない。待ち続けるくらいしか自分には出来ない。

 

 眠気に従って瞼を閉じるのも許されていると感じる。ただし日頃から今日への後悔を残さないのは難しく、眠気に従って瞼を閉じるの状況をデザインするのも簡単ではない。今は低収入のことを忘れたり、自分には恋人もおらず結婚の可能性も持てないことを忘れたり、明日のことを忘れたり、今日のやり残した仕事を忘れたり、今日あった嫌なことを忘れたり、いや、それらを思い出すこともなく眠気を感じる必要がある。そもそも自分が生きているといえ認識さえ必要ないのかもしれない。俺が生きていることが、苦しみの始まりだ。

 

 苦しみは減らせる、と願う。から取り除ける苦しみは取り除きたいし、自覚のある楽しいことは増やしていきたい。

 

 他人との距離感をよく間違える。だから、俺は間違えてもいい相手を欲していて、それが、俺の恋人というものに対しての幻想なのだろう。

 

 書き起こすことの周辺に、俺が楽しいと感じる何かが埋まっているのだろうと思う。カラオケの周辺に、俺が楽しいと感じる何かが埋まっているのだろうと思う。将棋の周辺に、俺が楽しいと感じる何かが埋まっているのだろうと思う。WEB日記の周辺に、俺が楽しいと感じる何かが埋まっているのだろうと思う。Twitterの周辺に、俺が楽しいと感じる何かが埋まっているのだろうと思う。

 

 綺麗に寝落ちしていた。ある意味幸せだったのだろう。